リンゴの甘酸っぱい香りが漂う町で、エアは収穫のお手伝いをしていました。
見渡す限りのリンゴ畑。
ひとつ、ひとつ、手でもぎっていく作業は、とても大変なものでした。
それでも、農夫のおじさんの、誰かの笑顔のために、という言葉に、エアは汗をぬぐいながら収穫するのでした。
次の日。
エアが、おじさんのお昼の休憩をしていると、遠くの方に、荒れ果てた畑が見えました。
リンゴ畑と同じくらいの広さがあるのに、誰も野菜を作っている様子はありません。
それは、隣の町の人たちのせい。
隣の町の人たちは仕事熱心で、ゆっくりと食事をすることを嫌っていました。
そこで、保存も出来て、簡単に食べられる、このリンゴを好んで食べるようになったのです。
いちいち、料理なんてしていられない。
だから、野菜を作る必要なんてなくなったのです。
エアは、少し寂しそうな顔をすると、太陽の光に輝く真っ赤なリンゴを、一口かじるのでした。
そんなある日のこと。
いつものように、エアとおじさんがリンゴの収穫をしていると、隣の町の方から、一人のおばさんがやってきました。
とても険しい顔をしている、おばさん。
手には、リンゴの入ったカゴを持っています。
おばさんは、そのカゴを、どさっと地面に置くと、おじさんに詰め寄りました。
おばさんの娘さんが、リンゴを食べたら、具合が悪くなって病院へ運ばれた、というのです。
おじさんもエアも、信じられない、といった表情をして、急いで、畑のそばにある小屋へと駆けていきました。
そこでは、リンゴの選別と、簡単な消毒が機械で行われていました。
おじさんは、ひとつひとつ、機械を確認していきます。
すると、消毒機の前で足を止めました。
エアとおばさんが近づいて見ると、機械のタンクにヒビが入っていて、消毒液が、必要以上にリンゴにかかっているではありませんか。
これが原因で、リンゴが毒リンゴになったのです。
おじさんは、すぐにタンクを取り替えると、おばさんに、何度も、何度も謝りました。
おばさんは、文句を言いながら、小屋を出て行きます。
すぐに、リンゴの出荷をストップです。
しかし、問題はこれだけで終わらないのでした。
次の日。
おじさんの小屋の周りには、数え切れない程の人たちが詰め寄っていました。
あまりの剣幕に、おじさんとエアは、小屋の中に避難するしかありません。
みんな、リンゴで病気になった、と訴えに来たのです。
何てことをしてしまったのだろう。
幸せを運ぶはずのリンゴが、不幸を運ぶ毒リンゴになっていたなんて。
おじさんは、がっくりと肩を落として、暗い表情をしています。
エアは、その姿を見ると、とても心が痛みました。
ドン、ドン、と小屋の扉を叩く音が響きます。
天井に溜まったホコリが、その音と共に、おじさんの体に落ちてきました。
このままでは、小屋がつぶされてしまう。
おじさんが身を屈めた、その時です。
急に、小屋の外が静かになりました。
おじさんは、不思議に思い、窓から外をのぞいてみました。
すると、どうでしょう。
そこには、不器用な手つきで包丁を握る、エアの姿があったのです。
休日に、遠くの町から買ってきた野菜を刻んでいるようでした。
隣の町の人々は、エアの姿を食い入るように見つめています。
そして、少しずつ、大切なことを忘れていたことに気がついたのです。
エアの料理が出来ました。
隣の町の人たちは、順番にエアのスープを口にします。
野菜のサイズもバラバラ。
じゃがいもは、まだ芯が残っています。
味付けだって薄いし、決しておいしいスープではありませんでした。
それでも、隣の町の人たちは、黙ってスープを飲み干しました。
「料理の大切さを忘れないで。愛は、誰かに届くから」
おじさんが、小屋の中から出てきます。
エアは、静かに微笑むと、おじさんにスープを手渡しました。
もう誰も、おじさんを責める人はいませんでした。
次の日。
リンゴの収穫は再開されました。
たくさんの人たちが、収穫のお手伝いをしてくれます。
それだけではなく、遠くに見えた荒れた畑も、少しずつ元通りになっていきました。
料理をすることの大切さ。
便利な食べ物に寄りかかっていた、情けなさ。
それを、毒リンゴが教えてくれたのです。
おじさんは、手ぬぐいで汗を拭いながら、エアの姿を探しました。
しかし、どこを探してもエアは見つかりませんでした。
風のように、やってきて。
風のように、消えていく。
空は、雲ひとつない青空。
真っ赤なリンゴが、太陽の光に目を細めるのでした。
窓の向こうに見える、不思議な格闘技を、エアは毎日見学に来ていました。
それは、「気」を相手にぶつけて、円の外に押し出す、という格闘技。
全身に流れる「気」の大きさが、勝敗を決めます。
その「気」を高めるために、たくさんの男の人が練習に励んでいるのでした。
ある日のこと。
エアが、いつものように練習を見学していると、道場の中から、大きな音が聞こえてきました。
そこには、大きな体をした3人の男の人と、地面にうずくまる、青い髪の男の人が見えました。
力の入りすぎで、青い髪の男の人が壁まで飛ばされてしまったのです。
その人は、毎日、ボロボロにされていました。
それでも、何度も立ち上がる姿に、エアは心の中でエールを送るのでした。
それから、何日が過ぎたでしょうか。
それまで、雨が続いたため、エアは久しぶりに道場を訪れました。
そして、あの青い髪の男の人を探します。
しかし、男の人の姿はありません。
すると突然、裏口の方から、誰かが倒れる音が聞こえてきました。
エアが、裏口にまわると、青い髪の男の人が、いつかの3人組にイジメられているではありませんか。
エアは、すぐに青い髪の男の人の前に、割って入ります。
さすがの3人組も、女の人に危害を加えることは出来ません。
女に守られやがって。
そう言って笑いながら、3人組は道場へと戻っていくのでした。
エアは、青い髪の男の人に手を貸すと、ゆっくりと立ち上がります。
そして、道場の医務室へと連れて行き、簡単な治療をしてあげました。
男の人は、苦しそうな笑顔で、お礼を言います。
それを見た、エア。
心の底から、怒りがこみ上げてきました。
男の人をベッドに寝かせると、ズン、ズンと歩きながら、道場へと向かいます。
そして、あの3人組の前まで来ると、円の方を指差します。
まさか、勝負するというのか?
3人組は、ヘラヘラと笑いましたが、エアは真剣です。
ずっと見学をしていたので、どういう風に闘えばいいのか、よく理解していました。
円の真ん中に立つ、エア。
3人組の一人が、仕方ないといった表情でエアの前に立ちます。
お互いに手のひらを相手に向けました。
行司さんの掛け声で、一斉に「気」を相手にぶつけます。
それは、風になってお互いの体を円の外へと送り出そうとします。
あんな華奢な女が勝てるわけ無い。
誰もが、そう思っていました。
しかし、円の外に飛ばされたのは、3人組の方。
道場内は、しーんと、静まり返りました。
エアの強い思いが、「気」に宿ったのです。
女に負けた。
そんなことを、3人組が許すはずはありません。
卑怯にも、3人一斉に円の中に入ると、行事さんの掛け声も待たずに、エアに「気」を送ります。
さすがのエアも、3人の「気」には勝てません。
このままでは、壁まで飛ばされてしまう。
誰もが、そう思った、その時でした。
突然、エアの「気」が高まったかと思うと、今度は3人組みが押され始めました。
エアが後ろを振り向くと、そこには、キズだらけの青い髪の男の人が立っていました。
誰かを守りたい。
その為に、強くなりたいんだ。
青い男の人は、そう願い、道場の門をくぐりました。
エアを守りたい、という思いが、男の人の「気」を高めてくれたのです。
その「気」に対して、3人組の「気」には、全く信念がありません。
月日が流れるにつれて、新人をイジメることの為に、「気」を高めるようになってしまったのです。
壁に転がっていく3人組。
それを見届けた、青い髪の男の人の体を、エアはしっかりと抱きとめるのでした。
次の日。
道場内には、いつも以上の活気が溢れていました。
昨日の青い男の人の姿を見て、忘れていた気持ちを思い出したのです。
その様子を、エアが窓越しに見つめていました。
「本当にやりたかったこと。忘れないでね」
窓の向こうから手を振っているエアを見つけると、青い男の人は、すぐに玄関のドアを開けました。
しかし、そこにエアの姿はありませんでした。
爽やかな風が吹きました。
空のように、青く澄んだ髪の毛が、緩やかになびいているのでした。
甘い香りに誘われるように辿り着いたその町は、優しさに溢れた不思議な町でした。
町の真ん中に、大きな真っ白い建物が見えました。
建物の中は、外よりも、もっと甘い香りがして、真っ白な外壁とは裏腹に、色とりどりの何かが輝いていました。
エアは、それを指でつまんでみます。
甘い香りの正体。
それは、おいしそうなキャンディーでした。
周りを見ると、町の人たちが、次々とキャンディーを受け取っています。
エアも、このおいしそうなキャンディーを食べたいと思い、キャンディーを配っている人のところへ持っていきました。
しかし、その人は首を振るだけ。
ただでは、あげられないというのです。
エアは、首をかしげました。
そして、町の人がどうして、キャンディーがもらえるのかを、注意深く観察します。
どうやら、町の人の為に何かをすると、その分のキャンディーがもらえるようです。
誰が、どれだけ、誰かのためになったのかは、町中にいる監視員さんが紙に書いているようでした。
エアは、にっこりと笑うと、さっそく町へと繰り出すのでした。
その日の夜。
エアは、小さな袋一杯にキャンディーを持って、宿に帰ってきました。
誰かの役に立ちたい。
誰かの笑顔が見たい。
それは、エアが常に願っていること。
たくさんのキャンディーは、エアの心を優しく包み込みました。
ポケットに入れた、小さな紙。
キャンディーの引換券です。
持ちきれないキャンディーは、少しずつもらえる仕組みでした。
たくさんの人を幸せにした人は、たくさんの引換券を持っています。
それで、毎日、キャンディーを食べることができるのです。
明日も、いっぱい、いっぱい、誰かの役に立とう。
エアは、真っ赤なイチゴ味のキャンディーを舌で転がしながら、お月さまに誓うのでした。
次の日。
昨日の分のキャンディーをもらおうと、真っ白な建物へ向かったエアの耳に、誰かの怒った声が聞こえてきました。
誰にどれだけのキャンディーを渡せばいいのか書いてあった紙を、間違えて燃やしてしまったというのです。
これでは、キャンディーをもらえる数が分かりません。
それに、本当に、その人が誰かの役に立ったのかさえも、分からないのです。
キャンディーをよこせ。
嘘つきを信じて、バカを見たよ。
明日からの生活、どうしたらいいんだ。
皆、口々に文句を言い出しました。
それを見ていたエア。
とても悲しい気持ちになりました。
この町の人たちは、みんなで助け合っていると思っていたのに。
誰かの役に立ちたいと思い、そのお礼にキャンディーをもらっていたと思ったのに。
みんな、キャンディーが欲しい為に、誰かに優しくしていたなんて。
怒った誰かが、置いてあるキャンディーを自分の袋に詰め込みました。
それを見て、町中の人が、キャンディーの奪い合いです。
誰かの叫び声。
人を傷つける音。
倒れていく力の弱い、女性とお年寄り。
砕け散る、キャンディー。
それを拾う、小さな子供たち。
もう、誰にも止められない。
誰もが、そう思った、その時です。
建物の奥から、大きな袋を引きずって、エアがやってきました。
袋の中には、たくさんのキャンディーが詰まっています。
みんな、エアの方を向いたまま、黙っています。
エアは、自分の袋の中に入っていたキャンディーを、側にいた女の子に差し出しました。
袋の中のキャンディーが終わると、引きずってきた袋の中のキャンディーを配り始めます。
ひとつ、またひとつ、キャンディーは配られていきました。
最後の一粒を、キャンディーを配っていた人に手渡すと、エアは静かに微笑みます。
「みんなで分け合えばいいの。大切なのは、キャンディーじゃなくて、誰かの笑顔でしょ?」
静かな建物の中に、エアの足音だけが響きました。
外に出て行くエアの言葉に、誰もが大きくうなずきました。
建物からは、たくさんの「ごめんね」が聞こえました。
オレンジ色に染まる空。
甘い香りの風に吹かれて、エアは旅を続けます。
口いっぱいに広がる、イチゴ味のキャンディーを舌で転がしながら。
夜中に妙な気配がして、ふと目が覚めた。
僕は今、仕事で東京に出張に来ていて、昨日は夜中まで接待で飲んだ。
明日は休みをもらっているので、東京で一泊をして朝方新幹線で帰ろうと思い、会社の金で安いホテルに泊まっている。
カーテンを少しだけ開けて寝るのがいつもの癖で、外からはネオンが差し込み、部屋をカラフルに照らしている。
どこからともなく、「ええなぁ~・・ ええなぁ~・・・」と言う声が聞える。
隣の部屋の会話が壁越しに聞えているのかな・・・と思い、壁の方を見ると、そこに死神がいた。
「うわ!!」でも「ひぇ~~!!」でもない。
こういうときに人は言葉が出なくなるんだということを初めて体感した。
でも、意外と頭の中は冷静だった。
死神は、ナイトメアビフォアーなんとかという映画のようなドクロの顔をしているが、あんなに長身ではなく4頭身くらいのずんぐりむっくりな身体をして立っていた。カマではなく、包丁でもなく、そいつはなぜか小さな子ども用の、プラスチックスコップを持っている。
「ほんま・・ええわぁ~・・・ むしろズルいわ・・」
死神がボヤボヤとつぶやいている。よく見るとくわえタバコなんかしていて、時々ポワ~っと、目の奥の空洞を照らしている。
「な・・・何がですか?」
「自分、ピンピン生きとるな。 ワシもこの前までな、そこで寝とってんで」
深く考えると非常に怖いことを言っているんだが、僕の頭の中では「あ、じゃぁおそろいですね」なんて間の抜けた言葉が頭をよぎる。
「自分、死神って怖いと思ぉてる?」
「えぇ・・・まぁ、映画で出てくるようなのは怖いと思います・・・」
「そうやろ? じゃぁなんでビックリせぇへんねん」
「いや・・・なんか、拍子抜けしちゃって・・・」
「なんでやねん。 ワシが6頭身だからか?」
「6? ・・・えぇ、意外と可愛いな・・・なんて」
「しもたぁ~・・・やっぱスコップはあかんねんな」
「なんでスコップなんですか? カマとか、そういう物騒なものの方が死神らしいんじゃないですか?」
「あんなもん振り回して手ぇ切ったらどないすんねん! 手は商売道具やで!」
「はぁ・・・すみません・・」
「自分、まだぴんぴんしとるな。 そろそろ死ねへんか?」
「明日名古屋に帰ります・・」
「うわぁ~・・・やってもぉたな。 これはホンマにやってもぉたな。 てゆうか、ワシ出損やんか」
「そもそも・・何をしにきたんですか?」
「殺しに来たに決まってるやん! でも自分ぴんぴんしとるやんか。 タケやんのやつ、ガセネタつかませよった」
「タケやん・・?」
「死神の情報屋や。 死にそうなやつの情報を色々もッてんねん。 そういう情報を1件2,625円で売りさばいとんねん」
「ぜ・・・税込みですか・・」
「当たり前やがな。 地獄の沙汰も血税でなりたっとんねん!」
「てゆうか、まだ死なないんですけれど、もしも僕を殺したらどうなるんですか?」
「自分、なんで死神がおるか知っとる?」
「いえ・・・漫画とかでしか知りません」
「あんなもん、作り話ばっかやがな。信じたらあかんで。
ええか、死神に殺されたヤツは死神になんねん」
「え? 死神って、ひとりじゃないんですか?」
「そうや、ほんでひとり人を殺したら死神卒業や。晴れて天国への切符をもらうわけや」
「へぇ~・・善人が勝手に天国に行くんだと思っていました」
「善人やからって誰でも彼でもホイホイ天国に行ったら渋滞してまうやろが。 リスクを伴わんと楽な道にいけるかい、アホやな」
「・・・誰がアホですか」
「ワシかて、人なんて殺したくないやんか。 ワシが死神に殺された時はビックリしたでぇ。
自分みたいにめぇ覚めんかったもんな。寝てる最中にばっさりや」
「・・・寝てたらビックリできないじゃないですか」
「やかましいわ! 気付いたら死んでてびっくりや!」
「・・・はい、すみません」
「ほんでいきなり、『さぁ、行きましょうか』なんて東京弁で言いくさって、閻魔様の前につれてかれたんや。
閻魔様に『どの道具にする?』て聞かれて、カマとか包丁とか色々あってんけど、いきなりで怖かったからスコップにしたら・・・・・こんなもんでひと殺せるかい!!」
死神は持っていたスコップを壁にコツンと投げた。
からから転がるスコップを、4頭身が取りに行く。
「でも・・・死神って『寿命が終わりかけの人』のところに行くんじゃないんですか?」
「自分、わかってへんな。
ピンピンしとるやつと、死にそうなやつ、自分が死神ならどっちに行く?」
「あ・・・・・死にそうな人です」
「せやろ? 死ぬ準備なんて誰もできへんやん。 でも、死にそうなヤツは、『ちょっと殺してもええかな』って言うと、『楽にしてください』って言ってくれんねん。 だから、死神はみんな死ぬ間際に出てくんねん」
「・・・・優しいんですね」
「誰がじゃ、アホ」
といったかと思うと、タバコをポワーっと光らせて、すぅ~っと死神は消えていった。
「あ・・・・・ 死神さん・・・・」
ちょっと不思議だったな・・・と思っていたら、誰もいないのにスリッパがペタペタと動く。
そして出口まで行ったかと思うと、カチャリと鍵をあける音がした。
「あの・・・・せっかく消えたなら、黙って出てってくれませんか?」
「うわ! ビックリした!
姿消したのに、自分見えるのん?」
「そりゃ・・気付きますって・・」
「エスパーやな。 ほな、チェックアウトしてくるな」
・・・チェックインしてたんだ・・。と突っ込もうかと思ったら、カチャリと扉が閉まった。
外から差し込むネオンの明かりが、カラフルに部屋を照らしていた。
「・・・さん」
「・・・橋さん」
「高橋さん!!」
私は自分の名前を呼ばれて「は・・はい!!」と、大きな声を出した。
「わ! ちょっと! 声が大きい!!」
と、同じサロンの山内先輩に押し殺した声で注意をされた。
「いくらお客様が居ないからって、リラクゼーションサロンなのよ? 大声を出したらサロン全体の気が散漫になっちゃうじゃない」
「す・・・すみません」
いつの間にか山内先輩は、先ほどのフルリフレを受けたお客様を見送って、控え室に入ってきていたらしい。
私はずっとここに居たのに気づかなかった。
「ちょっと・・大丈夫?
さっきからタオルを見つめてボーっとしてるよ?」
私は先ほど帰られたお客様のひざ掛けブランケットをたたむ途中で、考え事をしてしまっていたらしく、控え室でもあるバックヤードで立ち尽くしていた。
「何かさっきのお客様に言われた? 施術の力加減が弱いとか・・」
「いいえ・・そういうわけじゃ・・」
「そう・・ならいいけれど・・ うわ!!
ちょ・・・ちょっとどうしたの!? この腕のアザ!」
7分袖の制服から、真っ赤に晴れ上がった腕が少しだけ出てしまっていた。
「あの・・転んでしまって・・・」
私はひっかいた爪の後が先輩に見られないようにそっとおさえた。
「そう・・・あんまり辛いようだったら早退してもいいからね。
もしも残るのなら、気を引き締めてやって頂戴ね!」
「はい・・・すみませんでした。 気をつけます」
先輩は「寒い寒い・・」と言いながら、お湯で手を温め始めた。
1月の東京。 この日は珍しく雪が降って、朝のニュースでも一番の冷え込みになると言っていた。
リフレクソロジーサロンでは足を出すので、冬はお客様が激減する。
本来なら、寒い冬こそフットバスとあったかい施術で足裏を温めるほうがいいのだけど、感情的に「足を出す」ということを避けたくなるのだろう。
この日は全然お客様が来なくて、余計に考え事をしてしまう。
そして、考え事をしていないと、かきむしった腕がジンジンと痛む。
でも、今はこの痛みが私の心を支えてくれているような、そんな気がした。
(お前のことが・・・信じられない・・・・もう別れよう)
手を止めると、祐樹の言葉が耳元に響く。
なんで・・? あんなに好きって言ってくれたのに・・・。
もう一度沖縄に遊びに行こうって約束したのに・・・。
クリスマスプレゼントもあんなに喜んでくれたのに・・・。
考えたら死にたくなってしまう。
考えたくなくて、私は腕をかきむしろうとした。
その瞬間、
「高橋さん、お客様お願いします!」
山内先輩の言葉に、はっとわれに返って、慌てて腕を隠した。
「す・・すぐ行きます」
控え室のカーテンを開けてフロアに出ると、入り口のところでちょこんと年配の女性が座っていた。
「おばあちゃん」と呼ぶには若く、「上品な奥様」という感じのおばあちゃんだった。
受付に行くと、「田中さま N 20:プチ」という付箋を渡された。
そっと田中さまに近づき、声をかける。
「田中さま、本日は初めてのご来店ありがとうございます。
20分のプチリフレでよろしいでしょうか?」
という私の言葉に、田中さんはニコリと微笑んで、
「はい、よろしくお願いします」と、立ち上がった。
その立ち方が、とっても上品で、キレイだと思った。
席にご案内し、靴下を脱いでいただいて、フットバスにそっと足を入れていただく。
「お湯加減は大丈夫ですか?」
という問いかけに、やはり二コリと微笑んで、
「えぇ、大丈夫ですよ」
と答えた。
本当に感じのいいおばあちゃんだ・・・と、改めて思った。
ブランケットをかけながら、もう少しこのおばあちゃんと話をしてみたいと思った。
「今日は冷えますね。いらっしゃるの、大変じゃなかったですか?」
「そうねぇ、でも今日は自分へのご褒美なのよ」
田中さんは穏やかにこたえた。
「じゃぁ、特にがんばりますね」
と言うと、
「えぇ、お願いね」
と、ニコリと微笑んだ。
しばらく温まっていただいたところで足を丁寧に拭き、「力加減、合わなかったらおっしゃってくださいね」と声をかけ、足の施術を始めた。
田中さんの足裏は、すごくやわらかく、おばあちゃんにありがちな硬い角質がほとんどなかった。
「すごく柔らかい足をしていらっしゃいますね」
と声をかけると、意外な答えが返ってきた。
「ある人にね、死にたくなったら足の裏を見なさい!って言われたのよ」
思わず、「え?」と、聞き返しそうになった。でも平静を装って、「どうしてですか?」と聞いてみた。
「いつもいつも大地を踏みしめて、私を支えてくれているでしょ。
それなのに、私が先に死んじゃったら、これまで支えてくれた足に悪いじゃない」
「あ・・・・」と、思わず声が漏れた。
私はいつもいつも足裏に接しているのに、自分だけ先に死にたいと思ってしまっていた。
いつもいつもがんばってくれているのに、力任せに身体をかきむしってしまっていた。
それを見透かされた気がした。
「私ね、そんなことを考えながら、毎日 三沢川を歩いているのよ」
私は言葉が出なかった。
言葉を出すと、涙がこぼれそうだった。
振り絞って、「私も三沢川、好きですよ。いつも通勤で通ります」とようやく言った。
「あら、本当?
いいわよね。春には桜が咲くでしょ、夏は新緑が綺麗で、秋の紅葉もいいし・・・
今日は雪が降ってくれた」
(雪が降ってくれた)
その言葉で、私の頭の中は12月24日にフラッシュバックした。
(祐樹ィ、すごいね! クリスマスに雪が降るなんて!)
(すげぇだろ、オレが降らしたんだよ!)
(何いってんのよ! 私たちの為に雪が降ってくれたのよ!)
施術中の私の手は、止まっていた。
はっとして田中さんを見ると、窓から見える外の雪を見ながら、ちょっとだけ悲しそうな顔をしていて、こう呟いた。
「本当に・・・キレイだった・・・本当に・・・」
その時、この人も雪の振る日に大切な人を亡くしたんだと感じた。
そう思った瞬間、こらえていた涙が零れ落ちた。
私は慌てて横に置いてあった予備のタオルで、そっと涙を押さえた。
その後の施術中は、田中さんの顔を見れなかった。
でも、ずっと窓の外を眺めていてくれたんだろうと、なんとなくわかる。
なんとか施術を終えて、涙も拭いた後に、
「以上で、本日の施術は終わりました」
と声をかけると、窓の外からそっと視線を外して、ゆっくりと「ありがとう」とおっしゃった。
「あの・・・こちらこそ、本当にいいお話をありがとうございました」とお伝えすると、
「今日、あなたに会えて、よかったわ」
という言葉を残し、やはりニコリと微笑んで帰っていかれた。
田中さんが帰られた後も、私の心はほんわりとあったかかった。
控え室に入ると、山内先輩が待っていた。
「ちょっと、高橋さん、施術中に手が止まってたよ!?
ボーっとしてるなら早退して!?」
夢見心地は一気に冷水をかけられたように覚めてしまった。
「は・・はい、すみません」
でも、これが現実。
何か特別なことがあったからといって、現実は急には変わらない。
腕もまだジンジンと痛む。
でも、ちょっとだけ特別。
今の私は、この痛みに逃げるのではなく、この痛みを受け止めていこうと思えた。
私をずっとずっと、いつも支えてくれているものに、ちょっとだけ感謝しようと思えた。
「まぁ、さっきのお客様、お帰りの時にも受け付けであなたのことを誉めてたからいいけれど・・・」
山内先輩がポツリと言った。
「え? 本当ですか?」
「うん。 気持ちのこもった施術で、心があったかくなったって言って帰っていったよ?」
「そうだったんですか・・・・また会いたいなぁ」
「不思議なおばあちゃんだったね」
「えぇ、素敵でしたね」
あれから4年経ち、私は独立をして自分のサロンを持った。
今思えば、何でもないことだったのかもしれない。
でも、雪とおばあちゃんが、私の心に「人を癒す」ということを教えてくれたような気がする。
変わらない現実。
サロンに来たからといって、その日から急に人生がバラ色になるなんていうことは無い。
でも、いつも支えてくれている身体と足を大事にすることで、人生はちょっとだけ色を明るくできるような気がしている。
ニュースで雪が降ったという話を聞くと、あのおばあちゃんがフラッシュバックする。
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