「落し物」

山内恵子は苛立っていた。

寝坊した朝の通勤電車の中は、全てがマイペース過ぎて不快に思える。

隣の女の髪から石鹸の匂いがするのさえ、気分が悪くなるし、車内広告の自分勝手に書かれたキャッチコピーに腹が立つ。

さっきから後ろにいる若いサラリーマンの肘が背中にごつごつ当たっているのにキレそうになる。

 

どいつもこいつも自分勝手だ。

 

そう思うのは、恋人の悠也と朝っぱらから派手なケンカをしたことが原因だ。

それはわかっている。

あいつが仕事で疲れていたこともわかっている。

私が目覚まし時計を一旦止めてしまって、自分で寝坊したこともわかっている。

 

「大人なんだから寝坊なんてすんなよな」

 

些細な一言。

でもイライラが止められない。

 

電車は自分勝手にガタゴト揺れながら走ってゆく。

そうかと思うと止まってみたりして、仕事に向かう人々を吸い込んだり吐き出したりして、呼吸している。

 

電車が何度か深呼吸した頃、私が降りて会社にダッシュしなければならない駅に着く。

景色の流れが緩やかになり、車内の人たちがカバンを持って準備を始めている。

後ろのサラリーマンが降りる体勢に入った時、もう一度肘が当たる。

イッテぇな・・・。

 

電車がホームに入る。

電車が止まりかけて、まだドアが開いていないのに、降りようとする人がいっせいにドアに寄り、後ろから圧力がかかる。

イッテぇな・・・。

 

プシュ

 

ドアが開くとなだれのように人が降りてゆく、自分の足が自分の足じゃない感覚のまま電車から下ろされて、波乗りするように階段の方に流れてゆく。

 

走っていけばギリギリ間に合うかもしれない。

そう思って前のおじさんを押しのけた時、おじさんのカバンと私のカバンが引っかかった。

 

それはスローモーションのようだった。

誕生日に悠也から貰って、カバンに付けていたグッチのキーホルダーが、おじさんのカバンに引っかかって、ピンっと跳ねるように外れた。

 

あ・・・・

 

流れは私を飲み込んでゆく。

グッチだけが取り残されてゆく。

サラリーマンは自分勝手にそれを踏んでゆく。

 

もういいや・・・。

泣けてくる。

 

「大人なんだから寝坊なんかするなよな」

 

悠也・・あんたの言う通りだよ。

何もかも私が悪いんだよね。

 

グッチは諦めよう。

そして悠也に、「寝坊したから落としちゃった、あたしが悪いんだよね。ごめんね、もういいよ。」って言うんだ。

 

流れに乗って改札にスイカを通して駆け出そうとしたその瞬間。

 

「落し物ですよ!」

と、肩をたたかれた。

振り返ると、私に肘をぶつけていたサラリーマンがいた。

 

「これ、キーホルダー、さっき落ちましたよ」

 

「あ、私のです」

 

自分が肘をぶつけていたことを彼は知っている。空気で「ごめんね」がわかる。

そんな申し訳ないような、ちょっと困ったような顔をしていた。

 

「じゃぁ、気をつけて」

 

「わざわざすみませんでした」

 

「いえ、こちらこそ。 じゃぁ、行ってらっしゃい」

 

あ・・・・

これが言って欲しかったんだ・・・。

 

胸にすとんと落ちてきた。

悠也に言って欲しかったのはあんな言葉じゃなく、これだったんだ・・・。

 

「ありがとう、いってらっしゃい」

 

そういってお互い背中を向けて駆け出した。

走りながら私は自分のシナリオを書き換えていた。

 

「悠也、今日はごめんね。寝坊したけれど、いい人に会ったんだよ・・・・」

 

悠也が言って欲しい言葉を、今日の私は届けてあげたいと思った。

執筆日:2007年12月26日 07:19 作:癒し人
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