先生になりたいわけじゃなかった。
でも、教員免許を持っておけば就職活動に有利になるかもしれないと、中学校と高校の教職課程を大学で履修した。
中学校の教員免許を取るためには、高校での教育実習だけでなく、養護実習が必要だった。
大学4年生の春、知的障害者の養護施設『ひまわりルーム』で1週間の実習をすることになった。
「今日からよろしくお願いします。水谷です!」
「はい、よろしくお願いします。施設長の金沢です。
わからないことや大変なこともあると思うけれど、1週間頑張ってくださいね」
「ありがとうございます!」
「ここで守ってもらいたいルールは、2つあります。
一つは、大声を出さないこと。
もう一つは、むやみに笑わないことです」
「はい」
と言って、メモを取り出した。
「最初に何か質問はありますか?」
「あの・・・むやみに笑わないというのはどういうことなんでしょうか?」
「はい。 こういった施設が始めての人は、何でも笑顔でいればいいと思っている方が、中にはいます。
もちろん、笑顔で接することは大事なんです。
でも彼らはとても繊細な心を持っています。
一生懸命に話しているのに、笑顔で聞いているのは、失礼な場合があるからです。
彼らを、人として尊重してください」
「・・・はい」
なんだかいきなり難しいことを言われて混乱してしまった。
確かに『元気に乗り切れば、1週間くらいすぐに終わる』と思っていたけれど、どうやらそういうわけにはいかないらしい。
「それでは、みんなに紹介しますから、ついてきて下さい」
と言って、施設の2階に一緒に上がった。
そこは、大きな工作テーブルが2つ並んでいる会議室のような場所だった。
テーブルの周りには、背もたれの無い椅子が並んでいて、そこにみんなが座っている。
歌を歌っている人、車椅子でどこか遠くを見ている人、唸り続けている人。
男の人も女の人もいたけれど、「年齢」はまったくわからなかった。
若いようにも思えるし、自分よりもずっと年上のようにも思える。
「みなさん、おはようございます!」
返事が出来る人は元気に返事をする。出来ない人は、自分なりに返事をする。
「今日からみなさんのお手伝いをしてくれる水谷さんです。
今回も1週間と短い期間ですが、よろしくお願いします。
彼にいろんなことを聞いたり、ここのいろんなことを教えてあげてくださいね」
こうして僕の『ひまわりルーム』での体験は始まった。
『ひまわりルーム』は、あらかじめ型がとってある木のおもちゃにヤスリをかけて、角を取って商品として出荷できる状態にくみ上げ、それをフリーマーケットなどで販売するらしい。
僕はスタッフの人に混じって一緒にヤスリをかけた。
「これ見てこれ見て!」
「あぁ・・すごいね。 うわぁ~、キレイになったね!」
「$&%$#%&'()('&%!!」
「え~と・・・そうなんだ。 ちょっとわからないな・・。」
施設のみんなは、すごく人懐っこく、色んな話をしてくれた。
養護施設にとって、僕のような実習生が入れ替わりやってくるので、彼らにとっては慣れっこであることも知った。
そうして実習が5日間を過ぎた時、
「じゃぁ水谷さんは、今日から伊藤さんの介助を一緒にお願いします」
そういわれて紹介されたのは、電動車椅子に乗っている伊藤さんという男性だった。年齢はやっぱりわからなかった。
手は妙な形で固まってしまっていて、口もずっと開いたまま震えていてしゃべることが出来ない。
伊藤さんの目の前には、「あ」から「ん」、そして記号などが並んだ文字盤が置かれていた。
彼はそれを、いびつな手の形で指差しながら、「よろしく」と意思表示をした。
こんなことを言ったら、怒られるかもしれない。
でもその時の僕の正直な感想として、「この人でもちゃんと意思表示をするんだ・・・」と思った。
知的障害者と聞くと、今までは抵抗があった。
意思の疎通の出来ない人たちだと思っていた。
でもこの『ひまわりルーム』に来てしばらく経って、それぞれが意思を持ち、喜怒哀楽を持ち、嫉妬したり、喜びを分かち合ったりしている。
そして、それが生きている証のように、心のヒダをいっぱい持っていて、最初に院長先生がおっしゃった「繊細」という意味が少しだけわかった気がした。
伊藤さんは、ヤスリを持つことが出来ない。
だから、パソコンの入力を仕事にしていた。
固まった手の人差し指で、一つ一つキーボードを叩いていく。
どうやら、みんなが作った作品の出荷数を入力したり、材料の注文数を入力したりするのが仕事のようだ。
これには正直驚いた。
「すごいですね。 こんな仕事もできるなんて」と、スタッフの人に話したら。
「もちろん、僕らがもう一度全てやり直します。
でも、ここにいる間は彼らが主役です。
みんなが自分自身で自分の仕事や人生をちゃんとやっていると、思ってもらいたいんです」と言っていた。
伊藤さんは、人一倍繊細で、気遣い上手だった。
突然僕を呼び止めて、「さっき田中さんが落ち込んでいたから、励ましてあげてください」とか、「内田君はいい人だから、無理して盛り上げることがあります」とか、そんなことを文字盤を使って教えてくれた。
だんだんとこの空間が好きになってきていたし、だんだんと伊藤さんが好きになっていた。
伊藤さんは、自分でトイレに座ることができない。
だから、電動車椅子でトイレまで行った後に、伊藤さんを抱きかかえてズボンを下ろし、便座に座ってもらい、一旦席を外す。
終わるとドアを内側からノックするので、今度はズボンをはかせ、車椅子に座りなおしてもらう。
それをベテランの人について何度か体験させてもらった。
7日目の昼過ぎ、伊藤さんがトイレに行きたいと言った。
僕は近くのスタッフの方にお願いをしに行った。
スタッフの方は少しだけ考えた後、「水谷さん、お願いします。やってみてください」と言った。
僕一人でやってみろということだ。
トイレは待ってくれない。
「わかりました」と伝えて、伊藤さんと初めて二人でトイレを済ませることにした。
まずは、電動車椅子に念のためストッパーをかけ、動かないことを確かめてから、足台を外し、伊藤さんの足を地面につける。
それから伊藤さんを前から抱きかかえ、一緒にズリズリと便座に近づいていく。
便座の前まできたら、片手で伊藤さんを支え、もう片手でズボンを下ろす。
そして、便座に座ってもらい、一旦せきを外す。
終わると内側からノックするので、今度はあらかじめ膝の上辺りまでズボンを上げておいて、前から抱きかかえる。
片手で支えながら、途中まで上がったズボンをしっかりとあげ、ズリズリと車椅子に近づき、腰を下ろしてもらう・・・・。
文章にすると簡単だ。
でも実際には、汗だくになりながら、「ちょっと待ってくださいね」「これで大丈夫ですか?」「もう一回やり直しますね」の繰り返しだ。
僕はなんだか、伊藤さんに申し訳なくなった。
もっとスムーズにしたかったし、出来ると思っていた。
帰りに伊藤さんの車椅子の横を歩きながら、伊藤さんに「ごめんなさいね、うまく出来なくて」と言った。
本心から謝っているのではなく、自分自身のふがいなさを正当化する為に言っているのは、誰よりも自分が知っていた。
すると伊藤さんは車椅子を止めて、横にぶら下げていた文字盤を指差して、これを膝の上において欲しいというしぐさをした。
文字盤を膝の上に乗せると、伊藤さんは気持ちを文字に託しはじめた。
「ぼ・く・で・い・つ・ぱ・い・し・ぱ・い・し・て・く・だ・さ・い」
「ほ・か・の・ひ・と・に・う・ま・く・や・つ・て・あ・げ・て・く・だ・さ・い」
「ぼ・く・は・じ・つ・け・ん・で・い・い・で・す」
僕で、いっぱい失敗してください。
他の人に上手くやってあげてください。
僕は実験でいいです。
僕は、「そんなことないですよ!」・・と、言えなかった。
今でもなぜかわからないけれど、そんなこと無いとは、言えなかった。
ただただ、その場で言葉が出ずに、伊藤さんの目を見て泣いた。
口が開いたままで、表情がまったくわからなかった伊藤さんの口が、かすかに微笑んだと、その時確かに思えた。
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